甚兵衛と勘左衛門 親子の絆の再発見
「新島と飛騨ん爺」
【天明水滸伝】
三島勘左衛門が、新島での流人生活の中書き残した「天明水滸伝(初編第2巻)」を原文で紹介。
読み明かしてください。(新島村博物館所蔵)
【深山世婦子鳥】
三島勘左衛門が江戸に滞在中書き記した和歌集「深山世婦子鳥」(みやまよぶことり)を沖野清氏が忠実に謹写したものです。
上木甚兵衛と三島勘左衛門の物語
元禄5年(1692年)、飛騨は徳川幕府の直轄地(天領)となりました。そこで、幕府は税を決めるため、飛騨一円の田畑を測量し、面積・等級・石高を定めました。これを元禄検地と呼んでいます。
ところが安永2年(1773年)、代官として派遣されていた大原彦四郎は、年貢の増率に加えて、飛騨の田畑の再検地を言い渡しました。今まで80年以上の間に、新しく開墾したり拡張された田畑の検地をおこない、増税を計るためでした。もちろんこれは幕府の方針に基づくものでしたが、大原代官の強引な政治に対する反感もあって、飛騨を挙げての大きな反対運動になりました。これを安永の大原騒動と呼んでいます。
農民たちの江戸での駕籠訴や、代官役所への強訴などにたまりかねた代官は、隣国に出兵を要請し、無防備な農民たちに鉄砲を打ち込んで、この騒動を鎮圧しましたが、磔4人・獄門17人など、約一万人もの農民が罪に問われました。
高山町の裕福な町人上木屋甚兵衛は、町の近郊に多くの小作地をもつ大地主でしたが、この騒動のとき終始百姓の味方につき、代官との交渉でも農民側の代弁をしたため、町民としてはただ一人遠島という重罪に処せられ、62歳の高齢で伊豆七島の新島(現東京都新島村)に流されました。
上木屋甚兵衛は、もと白川郷一色村(現荘川町一色)の三島家に生まれました。三島家は昔この地方に勢力のあった豪族の末裔で、代々名主を勤める名家でありましたから、甚兵衛もそれにふさわしい教養を身につけた文化人で、商才にも長けた人物であったため、30歳の時乞われて高山の造酒屋上木家へ養子に入りました。
一方三島家では、甚兵衛の兄が若死にしたため養子を迎えましたが、この人も病弱で子供ができなかったため、逆に甚兵衛の次男重松(後の勘左衛門)を赤子のまま三島家の跡継ぎとして迎え入れました。ところが、勘左衛門がまだ少年のうちに、養父も養祖父も相次いで世を去ったため、甚兵衛は自分の実子でもあり、生家の跡継ぎでもある勘左衛門の養育にさまざま心を砕きました。宝暦13年(1763年)勘左衛門13歳の時、この「旧三島家」が建てられましたが、甚兵衛はこの建築について高山から指図を書き送り、また、その用材も彼が手配したものでした。
「つらかりし 教えの鞭の今しあらば ひま行く駒を返すよしがな」後年勘左衛門は、こう歌に詠んで父の厳しかった訓育を懐かしんでいます。
新島に流された甚兵衛は、この間、島の子供たちに読み書きを教えたり、島の教養人たちと交遊して俳句の運座に加わったり、また、上木一族から送られてくる年10両程度のお金の中から、寺の本堂に塗箔を寄付したりしたので、島の人々から敬愛されて「飛騨んじい」と呼ばれていました。
在島15年、寛政2年(1790年)の4月のこと、甚兵衛は発作を起こして砂の上に昏倒します。幸い一命は取り留めましたが、中風の後遺症の残る不自由な身体になりました。
そのことを知らせる便りが島から届いた時、勘左衛門は、一族の代表として父の介抱のため、渡島することを決意します。
彼は、三島の家督を子の甚助に譲り、高山の郡代から添書を貰って江戸に発ちました。その年の暮れも間近いころ、願書を江戸の勘定奉行所に提出しましたが直ちに裁許が下りません。それは、この孝行息子の話を聞いた奉行所の温情でした。島に送るには、罪人の名目で流人船に乗せるのが定めでしたから、すぐ許しを出せば、船が出る春先まで牢に入れなければならなくなり、それはむごい仕打ちだと考えたからです。事実勘左衛門は、島送りの前日の一夜を小伝馬町の牢で過ごしただけで、翌年4月御用船で新島へ渡りました。
江戸を発つに先だって、勘左衛門はそれまで書き留めた絵入りの歌稿「深山世婦子鳥(みやまよびこどり)」を形見として故郷へ送りました。その末尾に自らの法号とともに、一首の歌を「辞世」と題して書きつけています。
『さくらばな つらなる枝もちりぢりに 風のいずこの土と消ゆらん』
再び生きて故郷の土を踏めないかもしれないとの深い覚悟が込められた歌でした。
島に渡った勘左衛門は18年振りに父に対面し、老い衰えた父を見て言葉より先に涙が溢れ、ただただ手を硬く握るだけでした。その後10日程は寝食も忘れるばかりにこの長い年月のことを語り合い、それからは、父の腰を擦り足を撫で続け、看病の合間に水を汲み薪を拾い、浜に出て魚を求めました。
また、魚場の帳面付けに雇われたり、医書を読んで島人を治療したりして生計を立てます。その献身ぶりは島の人々の心をうち、いつしか「孝行息子」と呼ばれるようになりました。その評判は時の幕府をも動かし、甚兵衛親子は米や金や薬などを度々下賜されています。
8年の後の寛政10年(1798年)、中風の気が重くなった甚兵衛は2ケ月ほど床についたのち、ついに罪びとのまま新島でその波乱に満ちた生涯を終えました。在島実に23年、享年85歳、飛騨では美しい紅葉の季節が始まるころでした。
甚兵衛は死に臨んで、「蜘蛛の巣に かかりて二度の 落ち葉かな」との句を残しています。
勘左衛門は甚兵衛の死後なお1年間島にとどまり、口に念仏を唱えながら、手に石工の道具をとって、わが手で父の墓を刻みました。その墓が完成すると今度は合掌する自分の姿を彫り、その胎内に法華経を収めて墓の傍らに据え、自分の代わりに父への回向を頼むのでした。この墓と自刻像には現在も新島の人々により日々花がたむけられています。
父の一周忌供養をすませた勘左衛門は、幕府から島を出る許可をもらい島を離れることとなりますが、最後に墓に詣でたとき、墓を前に「こればかり 残る涙や石の露」と、父との離別の悲しみを詠んでいます。
江戸に戻った勘左衛門は、出迎えの従者の急病にあって、高山に帰着したのは更に翌年の正月も末でした。早速上木の家で親戚寄り集まって、島から持ち帰った甚兵衛の歯骨をもって葬儀を取り行いました。白川郷一色村の自宅に勘左衛門が帰ったのは寛政12年(1800年)の2月、島に向かって旅立ってから実に10年余りも経っていました。自宅に帰った勘左衛門は、その後、父との島での暮らしを追憶して、「新島追慕編」という美しい絵巻を上木家に残しています。
また、「伊豆七島風土細覧」という長大な記録を書き記していますが、これは民俗学的に貴重な著書として全国的に高い評価を得ています。
さらに、新島で父甚兵衛の看病の傍ら、江戸滞在中に知った盗賊「真刀徳次郎」を題材に、関東から九州までを股に懸け盗賊を繰り返す「天明水滸伝」という全75巻にわたる長編小説を書き残しており、このうち原本74巻が東京都「新島村博物館」に大切に保存されています。
勘左衛門は、こうした貴重な書籍を記しながら、天保3年(1832年)84歳の長寿を保ってこの世を去りました。
※ 甚兵衛が生まれた「旧三島家」は、岐阜県の重要文化財となっており、県下では最も早い時期に四間取り形式を採用した、飛騨地方住宅の基本形といわれる家屋で、現在は観光施設「荘川の里」(荘川町新渕)に移築され大切に保存されています。
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