HIDABITO 020 株式会社駿河屋魚ーフレッシュフーズ駿河屋 代表取締役社長 溝際 清太郎 氏

HIDABITO 020 株式会社駿河屋魚ーフレッシュフーズ駿河屋 代表取締役社長 溝際 清太郎 氏

高山の人々から受けてきた御恩に感謝しながら「地域を食で支える」気概

「食」の観点から高山を見つめて約90年、地域の方々に生かしていただき今があります

高山バイバスから高山の中心を流れる宮川方面へ向かって車を走らせていると、ポーリング場や大型書店、スーバーが見えてくる。観光目的で訪れたなら見落としていたであろう場所にこそ、市井の人々の口らしが息づいている。平日の昼前だったが、駿河屋アスモ店(以下アスモ)はすでに地元の買い物客で賑わっていた。できたての惣菜が並ぷコーナ一周りはショッピングカートの小さな渋滞ができている。

近寄れずに戸惑っているおばあちゃんに、体格のいい男性が話しかけ、にこやかに誘導していた。


駿河屋魚ーの社長、溝際清太郎さんだ。





「おかげさまで今でこそ大型店舗になりましたが、最初は『魚一商店』という小さな魚屋から始まりました。祖父が1933 (昭和8) 年に創業して、私で3代目です」


穏やかな口調が印象的だ。アスモが2021(令和3)年春にリニューアルオープンした際、高山初となる「無印良品」を誘致したが、溝際さんはその出店計画の立役者。2016年にはエブリ東山店に地域の人々の交流の場としての「フレッシュラボ」を設けるなと、地域と人をつなぐ仕掛けにも注力してきた。物腰の柔らかな人柄の奥に、とてつもない改革精神が宿っているのだろう。その原点を知りたくなった。


「祖父の溝際一男は8人兄弟の長男で、病気がちだった両親に代わって妹や弟を養わなければと、16歳でニシン漁が全盛だった北海道へと出稼ぎに向かったんです。ところが、北海道までの船が出ていた静岡で追いはぎに遭い、わずかながらの持ち金をすべて失ってしまって。行き倒れ寸前の祖父を助けてくださったのが駿河屋という干物屋さんだったそうです。そこで丁稚奉公をしながら、祖父は魚の目利きから捌き方、商売といった魚屋のノウハウを身につけたのだと思います」


祖父・一男が高山に戻って起業した当初は飲食店への魚卸しが中心だったが、販路は徐々に町の人々へとシフトされていく。


「静岡で鮮度の良い魚を知ったことは、祖父にとって相当なカルチャーショックだったと思います。当時の高山は、塩ぶりなど保存加工されている魚しか手に入らなかった時代。何とかこの地域の方々に美味しいものを食べてもらいたい、その一心で夜行列車に乗って静岡や愛知からウナギや鮮魚を仕入れてきたようです。お客様に本当に喜んでもらいたいという思いが強い祖父でしたから」



1965(昭和40)年、商店をスーパーマーケット化へと事業拡大。静岡で受けた御恩を忘れないという創業者の思いを込め、屋号を「駿河屋魚ー」と改めた。


「二代目を継いだ父、清嗣(きよし)は商品畑の熱い人でした。駿河屋グループでは鮮魚・青果・精肉・惣菜・一般食品・日配・菓子・ベーカリーなど含めて10部門に分けてパイヤー制度を取り入れていますが、百貨店のない高山でうちがその役割を果たさねばと、父が考案したものです。デパートほどの規模でもないのに…と言われることもありますが、それぞれのパイヤーがお客様の声を拾い集め、食材や商品の魅力を深堀して提供することで、結果、お客様の喜びにつながっていると思っています」


ところが2011(平成23) 年、二代目が病いに倒れ急逝。溝際さんは25歳で事業を継承することとなった。


「東京の大学へ進学して故郷を離れ、人のあたたかさを含めた高山の良さや、仕事人としての父の偉大さを実感しました。父と一緒に仕事がしたくて大学2年のときには家業に入ることを決めていましたが、それは叶わぬ夢でした。

仕事の基本を社員の方から学ばせていただいたり、地域の方々も心配してたくさん声を掛けてくださいました。ありがたかったですね。誰もが口々に『お父さんにはすごく世話になった』と話されて。恩送りではないですが、御恩のなかで自分は生かしていただいたと心から思います」



アスモの食料品売場で、店員さんとお客さんが会話している場面をたくさん見かけた。「無印良品」ができてからは若い世代の客層も増えているそうだ。時代の変化を敏感にキャッチしながら、高山の食文化や人と人とのつながりを大切にすることも溝際さんは忘れない。


「日々感じているのは、飛騨の食に対するポテンシャルの高さと目や舌の肥えたお客様がたいへん多いということで

す。私たちはお客様との会話のキャッチポールのなかで育てていただいていますので、お客様のニーズにきちんとお応えできる良い品を揃えたいですね」


富山から信州へとつなぐ飛騨街道は、かつてはぶり街道と呼ばれ、日本海で水揚げされたぶりを冨山で塩づけされたものが高山にも運ばれていた。飛騨高山の年越しのごちそうとして珍重されるこの塩ぶりを「地域の方々により美味しく食べてもらいたい」と、自社で製造を始めたのは60年以上も前のことだ。その製法は二代目へ、そして三代目へと受け継がれ、今なお暮れに店頭を飾る看板商品となっている。


すべてはお客様のご満足のために一


その思いを原点に、改革精神もまた創業者から二代目、三代目へと受け継がれている。



社名株式会社 駿河屋魚一
住所岐阜県高山市岡本町2丁目45番地の1 
電話0577-34-5111
公式サイトリンクhttps://hida-surugaya.com/


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