HIDABITO 011 義基 義基 憲人 氏
呉服屋を継ぐことから始まったきりえ作家としての人生は飛騨高山から世界をつなぐ
高山市が作家を支援するというパッケージを自分の作家人生を前例にして、作りたいんです
高山市内を南北に流れ、桜や柳など季節ごとに美しい風景を見せてくれる風光明媚な宮川。高山観光の人気ポイントにもなっている宮川朝市が開かれている鍛冶橋付近に、観光客がふと足を止め、ウィンドウ越しに見入っている1軒のギャラリーがあった。脇から覗いてみると、高山の伝統的な景色が描かれた、数々の精巧なきりえが飾られていた。
「最近、高山も観光客がまた増えてきていて、うちでは特に欧米人のお客様が多くなっているんですよ。とはいえ、観光地で『作品』を売る、というのはなかなか大変なものでして。だからこそ、手にとっていただけることがうれしいんです」
そう目を細めながら、このギャラリー「義基」のオーナーであり、きりえ作家の義基憲人さんは話し始めた。
15歳の時に、親の仕事の都合で富山県からここ高山に移り住んだ義基さん。富山時代からデザインや美術の世界に憧れがあったものの、文化社会学を学びたいという気持ちもあり、大学に進学。ちょうど20歳のころに父親が現在ギャラリーとなっている物件を購入し、呉服屋としての事業を始めたそうだ。
「なんの気まぐれだったのかそういうことがあったので、大学を卒業したらその『家業』 を継ぐほかなかったんですよ(笑)。ただ商売を勉強したことはないわけで、なかなか事業としてうまくいかない。どうしようかという時に、染め物を始めたんです」
呉服屋で扱う高価な反物は、ある程度お客さんが決まっているもの。基本的には客先に出向いて売るものなので、ふらっと店舗に訪れた人が手に取るようなものではない。だが、時節は折しも飛騨高山が観光ブームで盛り上がっていた頃。観光客が気軽に手にとれるものをと、暖簾や手ぬぐいなどを染めようとした。
「ただこれも、専門に勉強してきたわけではないし、染め物がうまく染まらなかったので型紙がきりえと同じであることに気づいてきりえをするようになりました。それで 額に入れてお店に出してみたら、ものの1時間で売れてしまったんです。あ、これは欲しいと思う方がいらっしゃるんだ、と肌で感じてきりえをするようになりました」
義基さんのきりえの評判は口コミでどんどん広がり、そこからはトントン拍子で、地元出身者の方の紹介で新聞社を通じて名古屋の民芸店から、東京は青山のギャラリーまで取り扱いが増えていく。作家として独り立ちされた時期なんですね、と言うと義基さんは恥ずかしそうにこう答えた。
「作家というと、ちょっと困ってしまって。当時は本当に店を維持させるために、何ができるかなと試行錯誤を繰り返していただけですから……。ただずっとデザイン関係に憧れていた自分としては、ようやく大切なものを見つけられた気がしました。そこからは無我夢中で作品を作っていましたね」
義基さんの作品の特徴は、ずばり和モダンテイスト。高山の古い町並が雪に包まれている静やかな風景や、春に川沿いの桜たちが橋の袂で舞い散る様を、繊細さを保ちながらも時にデフォルメを効かせて描く作風は、国内だけでなく、海外からも熱い視線を集めている。作品の展開も増え、大手百貨店のバイヤーの目にとまったことから、三越、高島屋、松坂屋などでの取り扱いも始まった。
「すごくうれしかったですね。中学生の時に修学旅行で東京に行ったんですが、そこでバスガイドさんが『ここが日本一の百貨店です』と日本橋三越を指していて。今ではそこに自分の作品が並べられていると思うと、胸が一杯でした」
その後、デンバーで個展を行うなど海外への展開も生まれてきた義基さん。だがその目線は地元・飛騨高山と、自分の後続世代に向けられている。
「個人の作家としてデンバーに行ったのは、高山から世界へ出る前例やマニュアルが作れないかという意識があったからなんです。その意味ではパリとニューヨークはどうしてもいきたい。この作家なら海外へ出す価値があると認められたなら、高山市が支援するというパッケージを70歳までにつくりたいんです。そして、高山から世界へ出る作家を増やして、この街を本当の匠の町にしていきたいんです」
職人の町・高山ならではの目利きや、様々な団体の支援もあってここまで来られたと語る義基さん。「でも、70歳まであと3年!」と自分を鼓舞するように話してくれた。作家でありながら、その経験を活かした地域を愛する「プロデューサー」の世界へ向けた戦いは、きっと3年後にこの町に大きな実を落としてくれるだろう。
社名 | 義基 YOSHIMOTO |
住所 | 岐阜県高山市本町 2-52-3 |
電話 | 0577-32-0587 |
公式サイトリンク | https://www.yoshimoto-norihito.com/ |