縄文から始まった飛騨高山の歴史について
縄文から古墳時代
高山市内には縄文時代の遺跡が多くあります。1万年前に使われた有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)や8千年前の押型文(おしがたもん)土器が発見され、かなり古くから人が住んでいたことが分かります。
また、市内にある遺跡の中でも久々野町(くぐのちょう)の堂之上(どうのそら)遺跡は国の史跡に、片野町(かたのまち)の糠塚(ぬかづか)遺跡から発掘された浅鉢形(あさばちがた)土器は国の重要文化財に指定されています。
飛騨地方では5世紀中頃から古墳が造られるようになりました。5世紀に築かれた冬頭王塚(ふいとうおうづか)古墳や県の史跡に指定されている赤保木(あかほぎ)古墳群は飛騨地方の古墳として最も古いものと考えられています。古墳時代後期には、県の史跡に指定されている国府町(こくふちょう)のこう峠口(とうげぐち)古墳をはじめ、三福寺町(さんふくじまち)の小丸山(こまるやま)古墳、西之一色町(にしのいっしきまち)の岩屋(いわや)古墳、上切町(かみぎりまち)の寺尾(てらお)古墳群などが造られました。終末期の横穴墓(よこあなぼ)も発見されています。
Column
両面宿儺(りょうめんすくな)
文献に初めて登場する飛騨のできごとは、両面宿儺の乱です。「日本書紀」によれば、身体が1つで2つの顔と手足を4本ずつ持つ怪物宿儺が朝廷の命令に従わなかったため、仁徳天皇の65年(377年頃)、将軍難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)によって討伐されたとあります。丹生川町(にゅうかわちょう)の出羽ヶ平(でわがひら)にある鍾乳洞(しょうにゅうどう)に住んでいたという伝説があり、丹生川町の千光寺(せんこうじ)には円空(えんくう)彫刻などの宿儺像がまつられています。
飛鳥・奈良時代
優れた技術を持つ飛騨の匠
大化の改新によって税制が確立しましたが、飛騨は山国なので納める織物などは免除され、そのかわり1年に250日から300日間、都へ行って宮殿や寺院などを造る大工仕事が課せられました。家50戸ごとに10人ずつ割り当てられ、飛騨からは毎年100人前後の匠が都の造営へ出役したようです。優れた技術を持つ飛騨の匠の手により奈良の都には立派な建物ができ上がっていきました。しかし、中には仕事が苦しく逃げ出す人もいたようです。
「かにかくに物は思はじ飛騨人の打つ墨縄のただ一道(ひとみち)に」
この「万葉集」の歌は、飛騨の匠が墨縄で付けた一本の線に、作者が自らの一途な恋心を重ねたものです。万葉集がつくられた奈良時代、すでに飛騨の匠がよい腕を持った大工としての代名詞であったことが伺えます。
奈良時代になると伝染病が流行し、各地で飢饉が起こって、人々は不安な毎日を送っていました。そこで、聖武天皇は仏教の力を借りて人々の不安を鎮め、国を守るため、各地に国分寺を建てるよう命じました。高山の国分寺には奈良時代創建当時の塔の礎石が今も残っています。当時の建物は残っていませんが、現在の本堂は500年以上前に建てられたものです。
また、境内にそびえたつ大きなイチョウの木は国分寺建立のときに植えられたものと伝わっており、国の天然記念物に指定されています。
平安時代から室町時代
平家が天下を握ると、飛騨は平家の領国になりました。その中心は現在の三福寺町(さんふくじまち)といわれ、三仏寺城(さんぶつじじょう)が築かれました。また、鎌倉時代には、政治の中心が現在の国府町である広瀬郷(ひろせごう)や荒城郷(あらきごう)に移ったと考えられています。
室町時代の終わりに、高山外記(たかやまげき)が、現在の城山(しろやま)である天神山(てんじんやま)に城を築きました。そのため、高山外記の城の近くを高山と呼ぶようになったと伝えられています
その後、南飛騨に勢力を持っていた三木(みつき)氏が高山へ進出し松倉城(まつくらじょう)を築きました。しかし、豊臣秀吉に従わなかった三木氏は、秀吉の家来であった金森長近(かなもりながちか)に滅ぼされてしまいました。
金森氏による藩政時代
飛騨国3万3千石の国主となった「金森長近」
天正14年(1586年)、三木氏を滅ぼして飛騨に入国した金森長近は、飛騨国3万3千石の国主となりました。長近は、当初、漆垣内町(うるしがいとうまち)の鍋山(なべやま)に城と城下町をかまえましたが、土地条件から天神山古城(現在の城山)に城を築くことにしました。城の建設は天正16年(1588年)から始まり、13年間で本丸、二之丸を完成させ、その後3年間で三之丸が築かれました。日本国中に5つとない見事な城であったと記録が残っています。
城の建設と同時に城下町の整備も行なわれています。城を取り囲むように高台を武家地とし、一段低いところを町人の町としました。また、東側の山裾には寺社を移築・建立しました。重要施策としては商業の振興、鉱山資源や山林資源の開発があります。関ヶ原の合戦時には、表石高の倍近くになる6万石あまりの軍役が負担できたともいわれ、4代の頼直(よりなお)は江戸の大火の際に桧(ひのき)の角材1,000本を献上しています。
金森氏の時代は6代107年間続きましたが、元禄5年(1692年)7月28日、頼時(よりとき)の時代に突然、出羽国上ノ山(でわのくにかみのやま)(現在の山形県上山市)に国替えとなって、金森氏による政治は終わりました。
幕府直轄地(天領)時代
25代177年間続いた幕府直轄時代
金森氏が国替えされた後の飛騨は幕府直轄地となり、代官は関東郡代の伊奈半十郎忠篤(いなはんじゅうろうただあつ)が兼任、金沢藩主の前田綱紀(まえだつなのり)が高山城在番を命ぜられました。元禄8年(1695年)1月12日、幕府から高山城破却の命令が出され、同年4月22日から取り壊しを開始、6月18日には全てを終えて帰藩しました。幕府直轄時代は25代177年間続き、江戸から来た代官(12代からは郡代)が高山陣屋で政治を行いました。
明和8年(1771年)、大原代官が幕府の命令で飛騨の全ての山について官材の元伐(もとぎり)を中止し、安永2年(1773年)には飛騨の村々の代表を集め、検地のしなおしを言い渡すと、田を少ししか持っていなかった飛騨の農民たちは、厳しい年貢がさらに厳しくなると、越訴(おっそ)、駕篭訴(かごそ)などをして検地中止を願い出ました。これが明和8年(1771年)から寛政元年(1789年)までの大原父子2代、18年間にわたる大原騒動と呼ばれる農民一揆です。
一方、善政をつくした代官・郡代もいます。7代長谷川忠崇(はせがわただたか)は「飛州志(ひしゅうし)」を著しています。8代幸田善太夫(こうだぜんだゆう)は飢饉対策のために馬れいしょ(ジャガイモ)を農民に作らせ、飛騨では「善太夫(ぜんだゆう)いも」、「せんだいも」と今も呼んでいます。19代大井帯刀(おおいたてわき)は天保飢饉の際に、飛騨はもちろん出張陣屋(越前本保)領内でも救済措置を講じました。20代豊田藤之進(とよたふじのしん)は渋草焼(しぶくさやき)を起こし養蚕を盛んにしました。
また、幕末三舟の一人で剣や書の達人として知られる山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)は、父が21代の郡代として高山へ赴任したため、一時期を高山で過ごしました。高山陣屋前広場の北側には、鉄舟の青年期の銅像が立っています。
明治以降
明治元年(1868年)5月に飛騨県がおかれ、同年6月に高山県となり、さらに明治4年(1871年)筑摩県に移管されるまでの3年6カ月間、梅村速水(うめむらはやみ)、宮原積(みやはらつもる)の二人の知事により飛騨が治められました。また、明治9年(1876年)、美濃と飛騨を合わせた岐阜県が成立し現在に至っています。
町村制は、明治8年(1875年)に高山一之町村(いちのまちむら)、二之町村(にのまちむら)、三之町村(さんのまちむら)が合併して高山町になりました。当時、岐阜県では一番大きい町でした。
その後、明治22年(1889年)に新しい町制が実施され、大正15年(1926年)に灘村(なだむら)を合併、昭和11年(1936年)に大名田町(おおなだちょう)を合併して高山市になり、市制を施行しました。また、昭和18年(1943年)に上枝村(ほずえむら)、昭和30年(1955年)に大八賀村(おおはちがむら)を合併しています。
そして、平成17年(2005年)2月1日、丹生川村(にゅうかわむら)、清見村(きよみむら)、荘川村(しょうかわむら)、宮村(みやむら)、久々野町(くぐのちょう)、朝日村(あさひむら)、高根村(たかねむら)、国府町(こくふちょう)、上宝村(かみたからむら)の9町村と合併して現在の高山市に至っています。