春の高山祭をもっと知る 歴史と見どころをご紹介
毎年4月14日・15日に開催
絢爛豪華な屋台(やたい)、からくり人形、獅子舞や祭行列…見どころがいっぱい
飛騨高山を有名にした春と秋の高山祭。重要無形民俗文化財や、ユネスコ世界遺産にも登録されたこの有名な祭を一目見ようと、祭の時期には大変な人出となります。このうち、春の高山祭は毎年4月14日、15日に開催されます。旧高山城下町南半分の氏神様である飛騨山王宮日枝神社の例祭で、正式には山王祭(さんのうまつり)と言います。山王祭の特色の1つは12もの屋台(やたい)と呼ばれる豪華な山車。祭の舞台となる安川通りの南側・上町に登場し、うち3台がからくり奉納を行うほか、祭行事では賑やかな伝統行事も繰り広げられます。また、闘鶏楽(とうけいらく)や裃姿(かみしもすがた)の警固など伝統の衣装を身にまとった総勢数百名におよぶ祭行列が、お囃子や雅楽、獅子舞に先導され祭地域をまわります。夜になると各屋台はそれぞれ約100個にもおよぶ提灯を灯し、艶やかに夜の闇を飾ります。見どころがいっぱいの春の高山祭について詳しくご紹介します。
絢爛豪華な12台の屋台(やたい)
ユネスコ無形文化遺産登録「高山祭の屋台行事」
飛騨の匠の技を伝える屋台が祭の最大の見どころ
春の高山祭は日枝神社(ひえじんじゃ)を舞台に執り行われます。日程は毎年4月14日、15日です。祭の起源は古く、1692年(元禄5年)に記された書簡に
「三年一度三月時分山王祭御座候」
「右私家来野崎弥兵衛、四十ヶ年以前五、六年飛騨高山に罷在候付、口上覚書如此御座候」
とあり、1692年より40年ほど前すでに三年に一度山王祭があったとされていることから、1652年(承応元年)のころにはすでに春の高山祭があったことが分かります。第4代徳川家綱、飛騨に於いては第4代金森頼直の時代です。
祭の見どころの1つは屋台(やたい)と呼ばれる大きな山車で、この屋台の起こりは1718年頃と言われます。山王祭に12台、秋に行われる八幡祭に11台の屋台が曳き揃えられ、その壮大な風景は見る者すべてを圧倒します。長い年月の中で大火による焼失や、廃台によりいくつかの屋台を失いましたが、屋台組と呼ばれる町内の人々の懸命な支えにより今なお計23台の屋台が維持されています。
昭和35年(1960)、現存する23台の高山祭屋台は国の重要有形民俗文化財に指定され、昭和54年(1979)には、高山祭の屋台行事が国の重要無形民俗文化財に指定されました。さらに、平成28年(2016)高山祭の屋台行事が全国の32件の 祭りとともに「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録され、高山祭が世界の財産であると認められることとなりました。
精巧な動きが魅力のからくり人形
複雑、巧妙な仕掛けに息を呑む
本町1丁目の陣屋前交差点の路上で、三番叟(さんばそう)・石橋台(しゃっきょうたい)・龍神台によるからくり奉納が披露されます。14日、15日とも1日2回、各台20分ほどです。中橋のたもとにある「御旅所」へ屋台の正面を向け、順番にからくり人形を操作します。
三番叟では、戯曲「うらしま」の音に合わせ、6人の綱方が幾本もの綱を操って人形を巧みに操作します。童子が鈴と扇を用いて舞いながら橋樋を進み、橋樋先端の面筥(めんばこ)に顔を伏せます。面を上げてみると童子の顔は翁の面で覆われているという早変わりの技です。
石橋台では、艶麗な美女が主役。舞を踊る美女の打掛がめくれ荒ぶる獅子に大変化、やがてまた美女に戻り両手の牡丹の花を掲げながら舞い納めるというものですが、風紀の乱れを誘うと1892年(明治25年)に上演を禁止されてしまいます。100年余、屋台蔵に安置されていた美女のからくり人形でしたが、石橋台組の人々の熱意により昭和59年に復活し、現在に至ります。
龍神台では、台名の通り唐子が抱える小さな壺から龍神が登場する大胆な展開。33本もの綱を巧みにさばき、愛らしい唐子と荒々しい龍神の動きを表しています。
どの屋台でもからくり人形の繊細かつ大胆な演技に圧倒されます。からくり奉納の様子はYouTubeでライブ配信されます。
屋台を彩る豪華な装飾品の数々
名工の手による精巧な作品たち
現在の屋台に見られる精巧な彫刻は、文化・文政の頃にはまだ取り付けられていませんでした。天保8年(1837年)に信州は諏訪の名工 立川和四郎の彫刻が山王祭の屋台「 五台山(ごたいさん)」に取り付けられたことに刺激を受け、以後、谷口与鹿(たにぐちよろく)など高山の名工による彫刻が取り付けられることになっていきます。飛騨匠(ひだのたくみ)達は腕を競い合うようにしてその名人気質を遺憾なく発揮し、それぞれの屋台を飾り立てました。
春の高山祭の屋台の彫刻の中で、特に知られているのが麒麟台の彫刻「唐子群雄」です。手掛けたのは谷口与鹿、25歳の時の作品。1枚のケヤキ板から鶏や犬を連れた唐子たちが遊ぶ様子が彫り出されています。ケヤキの年輪の丸い輪を唐子の膝頭や頬に配置し、木目をも表現に使った秀逸なデザインです。谷口与鹿は他にも神楽台の巻龍、獅子、恵比寿台の手長足長像、琴高台の波間の鯉なども手掛けています。
このような彫刻に加え、漆塗り、飾り細工など、屋台を豪奢に装う数々の装飾物は、飛騨人の伝統の技として今も伝わり、屋台の維持や修理に大きく貢献しています。
伝統を受け継ぐ祭行事の見どころ 御巡幸(祭行列)
タイムスリップしたかのような、昔の装束をまとった総勢数百人の祭行列
神輿(みこし)を中心に、獅子舞や闘鶏楽(とうけいらく)、裃姿(かみしもすがた)の警固など総勢数百名の大行列が町を巡ります。14日午後に日枝神社を出発し氏子の家々を巡った後、御祭神はお旅所で一泊。15日午後、お旅所を出発し、日枝神社へ戻ります。昔ながらの衣装も必見です。
※お旅所前での行事催行中は、通行規制を行うことがあります。
屋台曳き揃え
豪華絢爛な屋台が曳き揃う、圧巻の景色
飛騨の匠の技を伝える「高山祭」の屋台は、春・秋ともに国の重要有形民俗文化財に指定されており、春は12台が勢揃いします。神楽台・三番叟・龍神台・石橋台の4台は中橋西詰めのお旅所前広場(高山陣屋前)に、他8台の屋台は所定の場所に曳き揃えられます。
ゆらめく提灯が幻想的な夜祭(よまつり)
提灯を灯し屋台がゆっくりと進む
14日夜の夜祭は、昼とは異なる幻想的な雰囲気が魅力。それぞれ約100個もの提灯を灯した各屋台が町をゆっくりと巡り、順道場を過ぎると「高い山」という曳き別れ歌を歌いながら各屋台蔵へ帰っていきます。ゆらゆらと光の軌跡を描く提灯と、漆黒の町並みのコントラストは格別の美しさです。
各屋台はゆっくりと長い列をなして進むため、大勢の観客も散らばって観覧することができます。まだ肌寒い春の夜にふさわしい幽玄の美にいつまでも酔いしれたい、そんな光景が眼前に広がります。
各屋台のご紹介
神楽台(かぐらたい)
沿革
古くから山王祭の神楽、獅子舞を主管し、初めの頃は白木のわくに太鼓をつって二人でかついだものでした。文化年間(1804年~1818年)、四輪の屋台形にし、嘉永7年(1854年)の大改修により現台形となりました。明治26年(1893年)改修。その後数度の改修が行われています。
- 嘉永改修
- 工匠:谷口延儔(のぶとし)
彫刻:谷口与鹿(よろく)
- 明治改修
- 工匠:村山民次郎
塗師:田近宇之助
金具:井上芳之助
構造:屋根無 太鼓昇降 四輪外御所車
特色
祭礼に際しては、侍烏帽子(さむらいえぼし)、素襖(すおう)姿の五人の楽人を乗せて獅子舞を付随させ、全屋台に先行します。曲は「場ならし」「高い山」など多数あり、場所により使い分けられます。嘉永の改修のとき、金具に一坪(3.3平方センチメートル)あたり一匁(4グラム)の純金が使用されました。
三番叟(さんばそう)
沿革
宝歴年間(1751年~1764年)の創建で、台銘は「恩雀(おんじゃく)」、天明年間(1781年~1789年)に翁操りを取り入れ「翁(おきな)台」と改銘、文化3年(1806年)に雛鶴(ひなずる)三番叟の謡曲による操り人形に替え、台銘も三番叟となりました。天保8年(1837年)、現在の台形に改造され、大正7年と昭和41年に大修理が行われました。
天保改造- 工匠:牧野屋忠三郎 彦三郎
構造:切破風屋根 四輪内板車
特色
二十五条の細綱で操るからくりがあります。童形の三番叟人形が所作を演じつつ、機関(からくり)樋の先端へ移行した聯台(れんだい)上の扇子と鈴を持ち、面筥(めんばこ)に顔を伏せ、翁の面を被り、謡曲「浦島(うらしま)」に和して仕舞を演ずるという構成です。屋台曳行順のくじは、必ず「一番」を引くことになっていて、神楽台についで他の屋台に先行する慣例となっています。
麒麟台(きりんたい)
沿革
創建年代未詳。天明4年(1784年)の火災に焼失し、再建されたものが文化3年(1806年)の記録に「鉄輪(かんなわ)」の名でみえます。翌文化4年「よしの静(しずか)」と改名し、文化10年(1813年)、以前から組内に金森家から拝領した麒麟の香炉を保管していたことにより、「麒麟台」と改名されました。弘化2年(1845年)大改修、大正10年改修。昭和46年修理。
弘化改修- 工匠:中川吉兵衛
彫刻(下段唐子):谷口与鹿(よろく)
彫刻(牡丹):中川吉兵衛
塗師:輪島屋藤兵衛
- 大正改修
- 工匠・彫刻:村山群鳳(ぐんぽう)
塗師:田近卯之助(うのすけ)
構造:切破風屋根 四輪外御所車
特色
台名の示す通り、屋根飾りとして一対の麒麟を載せ、中段、上段の上部の木鼻(きばな)の彫刻も麒麟の意匠となっています。下段の唐子群遊彫刻は谷口与鹿の作で神技といわれ、屋台彫刻中の逸品です。豪華絢爛な屋台です。
石橋台(しゃっきょうたい)
沿革
宝暦創建説と天明創建説があります。当初から長唄の石橋の操り人形があったため、台名もこれに由来します。弘化―嘉永年間(1844年から1854年)に改修。文久3年(1863年)大改修し、旧台を古川町に譲りました。
文久改修- 設計:村山勘四郎
工匠:畠中久造
彫刻(下段獅子):村山勘四郎
彫刻(中段彫り龍):浅井一之(かずゆき)
彫刻(牡丹):中川吉兵衛
見送り:朝鮮の段通(だんつう)
構造:切破風屋根 四輪内板車
特色
からくり人形は長唄石橋物(しゃっきょうもの)のうち、「英執着獅子(はやぶさしゅうちゃくじし)」を取り入れたものです。濃艶(のうえん)な美女が踊っているうち、狂い獅子に変身し、また元の姿に戻り両手に牡丹の花を持って千秋万歳(せんしゅうばんぜい)と舞い納める構成です。明治25年(1892年)に風紀上よくないと中止されましたが、昭和59年に復活されました。重厚で調和のとれた屋台です。
五台山(ごたいさん)
沿革
創建年代未詳。寛政年間(1789年から1801年)には「盧生(ろせい)」の台名で操り人形がありました。文化年間(1804年から1818年)に改修。中国名山の「五台山」と名を改めました。天保3年(1832年)の火災で焼失後、天保8年(1837年)再建。明治20年から23年改修。昭和48年修理。
天保再建- 工匠:谷口延恭(のぶやす)
飛獅子彫刻:立川和四郎(たてかわわしろう)
- 明治改修
- 工匠:村山民次郎
構造:切破風屋根 四輪内御所車
特色
朱塗り格子を透かして、回転する御所車がみえます。車は京都御所御用車師中川万吉の作。獅子牡丹の刺繍(ししゅう)幕は円山応挙が下絵を描き、下段の飛獅子彫刻は幕末の左甚五郎といわれた諏訪の立川和四郎作。見送り幕の雲龍昇天図は明治の帝室技芸員幸野楳嶺(こうのばいれい)の原作で、京都西陣で製作に半年を要した綴錦織の大作であり、各所に由緒を誇る屋台です。
鳳凰台(ほうおうたい)
沿革
創建年代未詳。寛政11年(1799年)、大黒天のからくりの人形を大国台に譲り、その後文化4年(1807年)には「迦陵頻(かりょうびん)」の名で曳行しています。またその当時、「鹿島(かしま)」と呼ばれていたこともありますが、文政5年(1822年)に「鳳凰台」と改称しました。天保元年(1830年)から改修を行なったが、天保3年の火災で焼失、天保6年から8年に再建されました。明治8年(1875年)、大正年間に小修理。昭和37年から39年に大修理。
天保再建 工匠:原屋喜助 牧野屋忠三郎
構造:切破風屋根 四輪内板車
特色
屋根中央部に赤木白毛の長い鉾(ほこ)をたて、根部に緋羅紗(ひしゃら)の屋根覆いをまとっています。赤黒黄3色の大幕はオランダ古渡りの珍しい毛織りといわれています。全体に堅牢で、金具も目立たなくして木材の美しさを強調しています。狭い道路の通行に備え、上段蛇腹(じゃばら)形支輪(しりん)が伸縮するようになっています。
恵比須台(えびすたい)
沿革
創建年代未詳。明和年間(1764年から1772年)、越前宰相(さいしょう)より大幕などが下附されたことは、高山富裕町人の大名貸を想起させ、当時すでに屋台があったことがわかります。初めは「花子(はなこ)」と呼び文化7年(1810年)に殺生石(せっしょうせき)の操り人形に替えて「殺生石」と改名。祭神に恵比須神を祀ることから「蛭子(えびす)」と呼ばれることもあったが、天保年間(1830年から1844年)頃から「恵比須台」となりました。弘化3年(1846年)から3年間かけて大改造。明治18年、昭和43年修理。
弘化改造- 工匠:谷口延恭(のぶやす) 谷口与鹿(よろく)
彫刻:谷口与鹿
構造:切破風屋根 四輪内板車
特色
下段の龍、中段の獅子、手長足長(てながあしなが)像の彫刻はいずれも名工谷口与鹿が情熱を傾けた会心の作。金具の鍍金(ときん)には14キログラムの純金が使用されています。見送りは幡(はた)見送りといわれる形式で、西欧の風俗を画材とした綴錦織(つづれにしきおり)。鯉の伊達柱(だてばしら)は藤原家孝卿の牛車に使用されたものです。
龍神台(りゅうじんたい)
沿革
創建年代未詳。安永4年(1775年)に弁財天像に猿楽を舞わせたとの記録があり、文化4年(1807年)の屋台曳順の「龍神」の台名がみえます。またこの頃、竹生島(ちくぶしま)弁財天にちなみ、「竹生島」とも呼ばれました。文化12年(1815年)に改造し、弘化3年(1846年)に修理。明治13年(1880年)から3年がかりで再改造され、唐破風屋根を現在の切破風に替えています。昭和41年、半丸窓上に龍彫刻が取り付けられました。
文化改造- 工匠:谷口紹芳
- 明治改修
- 工匠・彫刻:谷口宗之
塗師:小谷屋正三郎
構造:切破風屋根 四輪内板車
特色
32条の糸を操って龍神のはなれからくりが演じれます。これは、竹生島の龍神にちなんだもので、8尺余りの橋樋の先端に、唐子によって運ばれた壷の中から突然赫(あか)ら顔の龍神が紙吹雪をあげて現れ、荒々しく怒り舞うという構成です。見送りは試楽祭には望月玉泉(もちづきぎょくせん)筆の雲龍昇天図、本楽祭は久邇宮(くにのみや)朝彦親王の書で、明治天皇の鳳輦の裂れで表裂されたものを用いています。
崑崗台(こんこうたい)
沿革
創建年代未詳。安永3年(1774年)の組内古記録があるが、文化4年(1807年)には「花手(はなて)まり」の名で曳行をしています。その後、「林和靖(りんなせい)」と改称の後、中国にある金銀の産地「崑崗(こんこう)」にちなみ、「崑崗台」と改称されました。嘉永2年(1849年)に大改造。昭和9年から11年、昭和41年修理。
嘉永改修- 工匠:上野屋宗次
塗師:島田屋小三郎
構造:切破風屋根 四輪内板車
特色
天保年間頃(1830年から1844年)までは中国の故事により、林和靖と唐子のからくり人形がありました。棟両端の金幣、屋根上の宝珠は「崑崗」が中国随一の金銀の産地であることに由来し、金塊をあらわしています。見送りは中国産の刺繍、寿老と鹿の図です。
琴高台(きんこうたい)
沿革
創建年代未詳。文化4年(1807年)に「布袋(ほてい)」の名で曳行された記録があります。文化12年(1815年)には飛騨の漢学者赤田臥牛(がぎゅう)が「支那列仙伝(しなれつせんでん)」から「琴高、赤鯉に座し来る」の故事を引いて現台名に改められました。天保9年(1838年)に、組内に居住していた谷口与鹿が中心となり大改造。明治26年(1893年)、昭和32年、昭和41年修理。
天保改造- 工匠・彫刻:谷口与鹿
金具:伊勢屋治左衛門
塗師:輪島屋儀兵衛
構造:切破風屋根 四輪内板車
特色
鯉魚と波浪を刺繍した大幕を用い、伊達柱(だてばしら)は黒塗地に鯉の滝昇りの大金具を打つ。欄間にも与鹿の鯉魚遊泳の彫刻があるなど、鯉づくしの意匠となっています。本見送りは徳川家16代家達書の琴高仙人の詩、替見送りは垣内雲りん(かいとううんりん)の琴高仙人図です。
大国台(だいこくたい)
沿革
寛政8年(1796年)に創建され、日枝神社の宮寺松樹院にちなみ、「松樹(しょうじゅ)台」の名で曳行(えいこう)していた記録があります。寛政11年(1799年)、上ニ之町の現在の鳳凰台組から大黒天像を譲り受けて「大国台」と改称されました。弘化4年(1847年)に大改修。明治16年(1883年)、大正13年、昭和39年に修理。
弘化改修- 工匠:石田春皐(しゅんこう)
構造:切破風屋根 四輪内板車
特色
構造上に工夫がこらされ、屋根棟と上段の縁(ふち)が違う動きをして、しなう美しさを出しています。祭神となっている大国天の人形はもとは腹中から七福神が舞い出るからくり人形であったといいいます。毎年、くじによって決められる屋台曳行順で、この屋台の順位が若ければその年は米価が高く、その反対であれば安いという伝承があります。中段欄間の石田春皐作飛龍、下絵の土村栄斎(どむらえいさい)作獅子の彫刻が引き立っています。
青龍台(せいりゅうたい)
沿革
創建年代未詳。明和3年(1766年)に存在した記録があります。文化4年(1807年)には、「道成寺(どうじょうじ)」の名で曳行(えいこう)しており、娘道成寺のからくりを演じたといいます。文化12年(1815年)に改修。天保3年(1832年)、火災により焼失し、嘉永4年(1851年)に再建されました。この頃、台名も「青龍台」と改められました。明治23年(1890年)大改修。明治40年、明治30年修理。
明治修理
工匠:船坂栄蔵ほか
構造:入母屋造(いりもやづくり)屋根 四輪内板車
特色
国主金森氏が、特に日枝神社を崇敬すること篤(あつ)く、この屋台組が神社膝元(ひざもと)の重要地区にあったことなどから、金森氏の代行として宮本(みやもと)と呼ばれて、家紋梅鉢を使用し祭事を主宰する特権を持っていました。これは明治24年に宮本が輪番制になるまで続いた。台形も3層で、天守閣型の屋根(入母屋造)となっており、他の屋台と趣を異にしています。
出展:「高山の文化財」(高山市教育委員会発行)
2024年春の高山祭
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