HIDABITO032 飛騨春慶 塗師 熊崎信行氏
木目の美しさこそ飛騨春慶の粋
塗師の妥協なき技が生み出す艶と光沢
明日はもっと良いものを作ろうーーその気概が430年余の伝統をつなぐ
「塗りに失敗はつきものやわね。」
重箱の蓋に小気味よく刷毛を上下させて漆を塗り終えると、熊崎信行さんはそう言った。飛騨春慶の塗師になって48年。令和4年に飛騨高山の名匠に認定されるほどの伝統工芸士だが、「パーフェクトにできることはなかなかない」と、自身の技術に満足したことはない。
飛騨春慶は木地師と塗師の協業によって生まれる伝統工芸品だ。木地師が掘り出した器に塗師が漆を塗り重ね、仕上げに透明度の高い“透き漆”を塗って完成させる。互いの作業は全く異なるが目指す着地点は同じく、いかに木目を美しく魅せるか、にある。二人三脚で生み出された器は光沢があり、透けて見える木肌に気品をたたえた逸品だ。
年季の入った工房で、熊崎さんはひとり作業に打ち込む。塗る面積や場所によって使い分ける複数の刷毛をはじめ、漉した漆など、必要な道具は手を伸ばせば届く範囲に収まっている。背後の引き戸の中は先代の頃から使われている「回転風呂」という名の乾燥箱で、足元にはレトロなストーブが設えてある。職人の聖域でありながら、熊崎さんを核に居心地の良い空気感が漂う。
「ここの娘と結婚してね、それから塗師になりました。のちに師匠となる義父を先に知っておったんです。高校卒業後に名古屋で2年半ほど会社勤めをして、それから生まれ育った高山に戻ってサラリーマン生活をする中、趣味の一環でバドミントンを始めました。入会した民間のクラブに春慶会も入っておってね、義父や弟子がみなメンバーやったわけです。当時は数年先まで引き渡しができんほど受注があり、仕事に事欠かないからと、クラブ仲間だった先輩弟子たちから工房に入れと薦められたけど、のらりくらりと交わして(笑)。それでも結婚後、25歳で脱サラして職人になりました。」
ベテラン塗師の義父のもと、熊崎さんは腕を磨いた。義父は実直に仕事に向き合う職人気質な人だったが、指導においては厳しさはなく、むしろ優しかったと懐古する。
「たとえば重箱であれば、弟子のうちは裏塗りだけ。内側は刷毛が側面に当たるもんで難しい。それで義父が外側に漆を塗った後、自分は裏だけ塗って一晩乾かして。デキが悪かったら、義父が翌朝、裏の塗り面を木地を痛めんようにカッターでむくんです。それでも怒られたことはなかったわね。最初のうちは刷毛を上手く扱えんし、均等に塗れたとしても乾いた時点でホコリが付着しておったり小さい穴ができておったり、漆がはじいたりすることもある。失敗しながら繰り返してやっていくうち、10年くらいで一通りの技術が身についた感じです。」
塗りは、漆の精製加減や配合バランス、温度、湿度で乾燥具合が変わる繊細な作業。それだけに失敗はつきものであり、完璧な仕上がりはなかなか望めないのだが、木地師が仕上げた器を無駄にしないためにも「明日はもっといいものを」という心構えで熊崎さんは漆と向き合う。
そんな熊崎さんの塗師としての技能を信頼し、ときには難易度の高いリクエストが舞い込む。
「高山市役所の来賓室に飛騨春慶のテーブルがあるんやけど、あれは一番大きな受注品やったね。義父がまだ元気な頃で、二人で仕上げました。弦楽器のチェロも大変やったね。ストラディバリウスの産地で有名なイタリア・クレモナの世界的な名工、ベルゴンツィさんが木地を作り、塗りを私がやらせてもらったんです。今でもあちこちで演奏会をやっておるんやけど、その音色を聴きにいくのも一つの楽しみやね。」
日々の作業の合間に、作品づくりにも打ち込む熊崎さん。高山市美術展での受賞作品を見せていただいたが、その高い芸術性たるや。鉈(なた)で割ったままのサワラの木肌に春慶塗りを施した大皿はプリミティブな魅力にあふれ、高山の町並みで見かける格子模様を塗りで表現した重箱はモダンアートのようなインパクトを放つ。「今年73歳になり、視力も集中力も落ちてきた」と言うが、バドミントンもまだまだ現役で、現在、高山市バドミントン協会で会長を務めている。
2024年は塗師の仕事を2ヶ月半休み、熊崎さんは神事に挑んだ。工房が秋の高山祭りの舞台となる櫻山八幡宮のほど近くにある。近隣住民にとって、祭りは代々暮らしの中に息づく大切な伝統文化なのだ。
「八幡祭りには18台の屋台組みがあり、そのうち11台の屋台と呼ばれる大きな山車が曳き揃えられるんやけど、今年は屋台組の年行司に選ばれたんや。11組全体を取りまとめる大役やで、片手間にはできんから勉強しながらやらせていただきました。ここに住んでおる以上、神社に奉仕するのが務めやわね。」
高山祭りが始まってから300年。飛騨春慶は430年の歴史を誇る。
「地域の誰かが神事を担い、人から人へとつないできて今がある。春慶塗りの塗師もまた、時代ごとに受け継がれてきました。どちらも穴を開けるわけにはいかんからね、一つのピースとなってつないでいくだけです。」
社名 | 熊崎工房 |
住所 | 岐阜県高山市大新町3-18 |
電話番号 | 0577-32-5728 |