【飛騨高山の縄文遺跡を巡る】国史跡「堂之上遺跡」と縄文人が暮らしたまち・久々野町
古い町並みで有名な飛騨高山ですが、実は縄文時代の遺跡も数多くあります。そのなかでも有名なのが国指定史跡「堂之上(どうのそら)遺跡」です。
今回は、縄文的視点で高山市久々野町と堂之上遺跡をご紹介します!
縄文時代って今から何年前?飛騨地方にも縄文人はいたの?
まずはじめに「縄文時代」についておさらいしましょう!
縄文時代とは、日本列島で今から約16,500年前から約2,300年前の間にあった時代です。縄文土器(=縄目の文様をつけた土器)が使われていたことから「縄文時代」と呼ばれています。
初めて土器が作られた時を「時代の始まり」とし、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に分けられます。
岐阜県飛騨地方(高山市・飛騨市・下呂市・白川村)は、古来から豊かな自然に恵まれた地域ですが、古くから人が住んでいた形跡があり、各地で旧石器時代のものとみられる石器が見つかっています。さらに縄文時代の土器や石器も飛騨地内で数多く出土しており、その数2,000ヵ所以上と言われています。
高山市内においても、縄文遺跡や遺物が各地区で多数発見されています。特に久々野町は昔から縄文時代の土器や遺物が多く出土する地域で、飛騨地方の縄文遺跡で国史跡に指定されている「堂之上遺跡」を有しています。
縄文のまち「久々野町」ってどんな町?縄文的視点で解説します!
久々野町は高山市の南に位置し、霊峰・船山(ふなやま・「舟山」とも書く)のふもとに広がる町です。かつては林業と馬の生産が盛んでしたが、今は寒暖差のある気候と日当たりのいい地形を生かして、リンゴや桃などの果物が栽培されています。
そして、ここ久々野町は「縄文のまち」でもあります。久々野町内で現在26か所の縄文遺跡が確認されています。
ちなみに、縄文人が好む集落の立地条件は、以下の4点が挙げられます。
- やや高台にあること
- 水場が近くにあること
- 集落の背後が山で風を防げること
- 南側が開けていて日当たりがいいこと
ここ久々野町は、町内を飛騨川やその支流(八尺川、無数河川)が流れており、川沿いに河岸段丘や扇状地が広がっていて、これらの4つの条件を満たしています。縄文人にとって住みやすい土地であったと思われます。
町内に点在する縄文遺跡も、その多くは飛騨川流域で見つかっており、八尺川や無数河川の流域でも、縄文遺跡や遺物が確認されています。
もう一つの視点として、ここ久々野町は縄文文化の交流点であったと考えられます。
町内を流れる飛騨川は、北アルプス・乗鞍岳南麓を源流とする一級河川で、高山市高根町にある野麦峠付近から始まっています。つまり、飛騨川の上流へとさかのぼると、野麦峠を越えて信州(長野県)に出ることができるのです。
飛騨川を南に下ると、下流の岐阜県美濃地方で木曽川と合流して太平洋側へと通じます。
さらに久々野町は分水嶺の南側に位置します。八尺川をさかのぼると町の北端にある宮峠に至り、宮峠を越えれば位山分水嶺(北側)にたどり着きます。そこから宮川を下って下流へと進めば日本海側に出ることができます。
このように久々野町は本州の真ん中に位置し、東日本・西日本・北陸・東海地方へと通じることができる場所にあります。以上のことから、この地は縄文人にとって交易や居住にいい土地であったと考えられています。
堂之上遺跡の発見から、国史跡に指定されるまで
さて、久々野町内にある遺跡の一つ「堂之上遺跡(どうのそらいせき)」は、JR久々野駅から徒歩約10分ほどの所にある縄文遺跡で、飛騨川と八尺川が合流する付近の舌状台地にあり、破壊されることなくそのまま残っていた貴重な遺跡です。国の史跡に指定されています。
堂之上の存在は昔から知られていて、明治時代には「土器や石器が出てくる場所」として書物で紹介され、昭和10年ごろには「堂之上」という地名で遺跡地図にも掲載されていました。
古くから土器等がよく出てくることから「あの場所には何かがある」と言われていたようです。しかし、本格的な発掘はなされていませんでした。
やがて時代がめぐり昭和47年(1972年)。この頃の堂之上は畑で、駐車場を作る予定で久々野町の町有地になっていました。
当時も掘れば土器や石器が出土するため、久々野中学校の郷土クラブの活動場所となり、クラブ員の生徒たちが土器を採集する活動をしていました。そんな初冬のある日、いつものようにクラブの時間に生徒たちが掘っていたところ、地面の中から縄文時代の「炉(ろ)」が出てきたのです。
これがきっかけとなり、翌年の昭和48年(1973年)から昭和54年(1979年)にかけて、久々野町教育委員会によって本格的な発掘調査が実施されました。
昭和55年(1980年)、堂之上遺跡は国の「史跡」に指定されました。
その後、昭和57年(1982年)に史跡公園として整備されて、出土した遺物を保管展示するための資料館も建てられ、今に至っています。
【久々野歴史民俗資料館】
開館時間:8:30~17:00
休業日:毎週月曜日(祝日と重なった場合は翌日)
開館期間:4月1日~11月30日
※冬季間(12/1~3/31)は閉館します。
入館料:無料
堂之上遺跡についてもっと知りたい!突撃インタビュー
「堂之上遺跡の特徴と見どころ」について、遺跡の発見に関わった方からお話をうかがいました
※以下、谷口さんに教えていただいた「堂之上遺跡の見どころ」をまとめてみました。下の「遺構配置図」を参考にお読みください!
堂之上遺跡の見どころ① 縄文時代・前期から中期の集落跡地
今から約5,000年前の縄文集落がそのまま残っていて、約2,500年間の住居の変遷がわかります
縄文時代前期から中期の住居跡や食糧貯蔵用の穴、墓の穴などが、ほとんど破壊されていない状態で見つかりました。
発見された住居跡は全部で43軒。これらは同時期に建てられたのではなく、前期から中期にかけての約2,500年間の中で建て替えられたもので、古い家を壊してその上に建てたり、廃屋が自然に朽ちて土に埋もれた場所に新しい家が建てられたと考えられます。そのため、同じ場所に重複して建てられた跡が多数見つかっており、住居や炉の構造の違いや変遷を知ることができます。
堂之上遺跡の見どころ② 炉の四隅に立てられた「石棒(せきぼう)」の謎
信仰の目的に使われたものが出土しています
堂之上遺跡で最も有名なのが、第6号住居(配置図②)です。
この住居内には大きな石囲いの炉があり、炉の四隅には「石棒」が立てられていました。石棒とは、縄文時代中期以降に祭祀目的で作られたと思われる石器で、男性器のような形をしています。ここで発見された石棒は彫刻が施されていました。この他にも、新生児の胎盤や亡くなった子どもの遺体を入れた「埋甕(うめがめ)」が住居の入口に埋められていました。
さらに、燃えて炭化した木の柱などが見つかったことから、家全体が焼け落ちた状態であることがわかりました。信仰の目的で家そのものが意図的に焼かれたのではないかと考えられています。
- 谷口先生
- この住居の炉の四隅に立てられた石棒を見た時、長野県の諏訪大社の御柱(おんばしら)を思い起こしました。ひょっとしたら御柱のルーツなのかもしれません。また、四方に石棒を立てて結界を張っていたのかもしれませんね。
堂之上遺跡の見どころ③ 飛騨の匠のルーツ?
焼けて炭化した縄文時代の材木にあけられていた「ホゾ穴」。現代にも伝わる技法が竪穴式住居に使われていました
第22号住居址(配置図③)では、焼けて炭化した大量の木材(炭化材)が出土しました。これらの炭化材を調べたところ「ホゾ穴」のようなものが見つかりました。「ホゾ」とは、2つの木材を接合する時、片方の穴に差し込むためにもう片方につけた突起物のことで、あけた穴は「ホゾ穴」といいます。現在でも「釘を使わない技法」として建築時に用いられています。
硬い材質の木を選び出す知恵と、木材を加工してホゾを作る技術が、縄文時代に存在していたことを物語っています。
堂之上遺跡の見どころ④ 東西南北の文化の交流点
堂之上遺跡では、関東・信州・北陸、東海・関西の文化の特徴をもつ土器や住居址が見つかっています
第25号住居(配置図④)は、堂之上で最も大きい大型の住居跡です。ここは地床炉が7か所あり、そのうち5か所は同時期に使われていたようです。
一般的な住居ではなく、集会場や共同作業所として使われていたのではないかと考えられています。このような大型住居は主に北陸地方で多く見られるもので、この住居内では関西型や信州型の土器が見つかっています。
このように、堂之上遺跡では他地域の文化の特徴を持つ遺物等が、他の住居跡からも多く出土していることから、東西南北からの人の流れがあり、交易や文化交流があったことがうかがい知れます。
堂之上遺跡の見どころ⑤ 中央広場の大きな穴と縄文人の山岳信仰
この場所から縄文人も見ていた船山と位山
遺跡の中央部分にあたる中央広場(配置図⑤)では、住居跡はなく、代わりに多くの穴が発見されました。これらの穴を「土坑(どこう)群」といいます。その穴からは石や木の実が大量に見つかりました。おそらく食料を貯蔵したり墓地として使われていたのではないかと考えられます。
また、この土坑群から、大人が入れるほどの大きな穴が2つ発見されました。この穴には巨大な木の柱が立てられていて暦時計の役割をしていたのではないか…と考える専門家もいます。
冬支度に入る10月22日と冬が終わる2月22日、この日に堂之上から日没を見ると、位山と船山の間に太陽が沈みます。この季節の変わり目のタイミングを知るために、2本の大きな柱が使われていたのではないかと考えられています。ちなみに冬至の日に堂之上から船山を眺めると、ちょうど船山の山頂に太陽が沈んでいくのが見られるそうです。
今も霊峰として飛騨の人々が大事にしている位山と船山。縄文人もこれらの山々に特別な思いを抱き、堂之上の台地から仰いでいたことでしょう。
- シモハタエミコ
- ここで解説した「特徴と見どころ」に関する遺物は、堂之上遺跡に隣接する「久々野歴史民俗資料館」で展示されています。ぜひご見学ください!
駅から歩いて行く堂之上遺跡・道案内ガイド
実はJR久々野駅から近いんです!ゆっくり歩いても約10分ほどで到着。駅から遺跡までの徒歩ルートをご紹介します!
↑①~⑩…「JR久々野駅前を出発」から「反保橋(八尺川)を渡る」まで
↑⑪~⑳…「反保橋(八尺川)を渡って直進」から「堂之上遺跡に無事到着」まで
- シモハタエミコ
- 順路は画像下につけた番号①~⑳の順です。画像を右へスクロールさせながらご覧ください!
縄文人が暮らしたまち・久々野町。太古から変わらぬ豊かな自然と山々、美しい清流が今も残っています。どうぞ遊びにいらしてください!
ここも縄文遺跡⁉ 道の駅「飛騨街道なぎさ」をご紹介します!
最後にご案内するのは、JR久々野駅から車で約10分・国道41号線沿いにある人気の「道の駅」です。
実はこの道の駅の敷地の下は、久々野町の縄文遺跡の一つ「藤原遺跡」なのです!
平成4年(1992年)、国道改良工事に伴い、藤原遺跡の発掘調査が行われました。この時、縄文時代早期から後期の土器が多数見つかり、縄文時代早期の集石遺構が発見されています。調査後は整備されて道の駅「飛騨街道なぎさ」が建てられ、今は観光客や地元の買い物客でにぎわっています。
道の駅・飛騨街道なぎさ に来たら食べてほしい!わたしのオススメ①「縄文うどん」
ショウガ・ニンニク・ゴマを練り込んだ味噌をベースにしたお汁に、久々野町産の食材がたっぷり使われた「道の駅・飛騨街道なぎさ」オリジナルのうどんです。
聞くところによると、縄文うどんのリピーターのお客さんが結構いらっしゃるようですよ。
- シモハタエミコ
- 7月の猛暑日にいただきましたが、丁寧に練り込まれた味噌の滋養がすごく効いて、食べた後は元気が出ました。夏の暑さでバテ気味のカラダに栄養がじわっとしみ込んでいく感じです。温うどんですが、夏でもいけますよ!
道の駅・飛騨街道なぎさ に来たら食べてほしい!わたしのオススメ②「ジェラート」&「焼きたてパン」
道の駅内にある工房で作られている「ジェラート」と「焼きたてパン」は、地元の食材を生かし丁寧に手作りされています。
ジェラートは、飛騨産の牛乳と久々野産の果物・農産物で作られていて、カラダにやさしく、ほどよい甘さで、私のお気に入りです。
ジェラートとパンは、こちらのカウンターで販売されています。
工房で丁寧に焼かれているパンは「おいしい」と評判で、観光客だけでなく地元のリピーターが多いのが特徴です。
その他、冬季限定で予約販売されるアップルパイも人気商品です!
- シモハタエミコ
- 焼きたてパンの一番人気「紅茶メロンパン」を食べてみました。ほおばった瞬間、お口の中で紅茶の香りがふわ~と広がり、生地も柔らかくてフワフワでぺろりと完食しました。超おススメです!
【道の駅・飛騨街道なぎさ】
住所:岐阜県高山市久々野町渚2685番地
電話番号:0577-52-4100
営業時間:8:30~17:00
(レストランのラストオーダー:16:00)
休業日:水曜日(冬季のみ)
※祝祭日はのぞく
- シモハタエミコ
- 「JR久々野駅」から「道の駅・飛騨街道なぎさ」までの区間は、交通量が多い上、途中、歩道がない箇所がありますので、安全のため、お車で行かれることをおすすめします。
今回ご紹介したスポットはこちら
Google Mapの読み込みが1日の上限回数を超えた場合、正しく表示されない場合がございますので、ご了承ください
参考文献
・「堂之上遺跡ー縄文時代集落跡の調査記録ー1997.3」岐阜県大野郡久々野町教育委員会
・「久々野町史 考古・古代・中近世」久々野町史刊行委員会
・「史跡と史話」久々野ふるさと文庫刊行会
・「岐阜県の歴史」松田之利・谷口和人・筧敏生・所史隆・上村惠宏・黒田隆志 著(山川出版社)
・「飛騨・よみがえる山国の歴史」森浩一・八賀晋 編(大巧社)
ライタープロフィール
- シモハタエミコ
- 生まれも育ちも飛騨高山。生粋の飛騨弁ネイティブです。お車だけでなく公共交通機関で高山に来てくださった方も楽しめる観光情報を中心にお伝えします。また、ニッチなお散歩コースもご紹介します。
谷口さんは今から52年前、堂之上遺跡の「炉」を発見した中学生のお一人だとうかがいましたが、見つけた時のことを教えてください。
炉の中には炭や焼けた土器もあり、中学生だった私たちにも「これは縄文時代の炉だ」とはっきりわかりました。その瞬間「とんでもない発見をした!」と心が躍り、クラブ員の仲間たちと中学校の職員室まで走りました。
私たちクラブ員が発見した炉跡がある住居は、第2号居住跡です。場所は、堂之上遺跡の入口から入ってすぐ、手前右方です。(配置図①)
炉を囲み家族で暮らす縄文人の姿は、たとえば少し前まで、飛騨でよく見られた『家の家長が上座(かみざ)に座り、家族で食卓を囲んでいた姿』と重なります。
このように縄文の生活様式や文化が、のちの日本に受け継がれていたりするのです。
縄文時代は決して遠い昔のことではなく、意外と身近なところで「文化」として残っていたりするのです。